超つらつら文。NHK BSで人種の言及の仕方にモヤッとした件から日本の教育制度で評価できる点まで

飯塚事件を扱ったNHK BSの番組で、ある法医学の先生が日本よりヨーロッパの司法制度を評価する意味で「黒人だから、とか白人だから、というのを見ないで目隠しして判断する」というような言い方をしていたが、この言い方の意味がわからない。

あの言い方にはまるで人種別に犯人の可能性の高低があるという前提があるかのような認識を感じる。

もっと言えば、そこには「黒人だと白人より怪しいものだが、それを見ないように目隠しする」とでもいう前提意識を感じた。一見、何か雰囲気的には公平性のことを言っているかのようでありながら、一応ヨーロッパでマイノリティの立場になったことがある私には違和感が激しく、しかも番組もそれに気づかず流していることに驚いた。

今回書くのは、別にその先生を責めるわけではなく、ただ日本人が何気なく人種に言及して話すことへの違和感と、それ世界的に空気読んでないぞ、という話である。

人種を裁定に影響させないのは当たり前すぎる大前提、しかし現実はその大前提が徹底されていない

人種で偏見を持たず裁定するというのは現代において当たり前すぎることであって、しかしそれが実際には徹底されてないからこそのBlack Lives Matterである。

ヨーロッパではなくアメリカの話になってしまうが、黒人であるが故の誤認逮捕がしょっちゅうあり、不当に撃ったり身柄を確保する際に死に至らしめたりしているわけである。

それは裁判以前の話ではないか、といえば、もちろん裁判でも人種偏見により陪審員が判断を誤ることは往々にしてある。

というわけで私はこの先生の言い方に非常な違和感を持ったのだけど、もしかすると続きがあったのにカットされ、編集された可能性もある。テレビというものはそういう意味で全く信用できない。切り貼りで、全く別の意図に見せてしまう。

一体あの先生は何を言いたかったのだろうか。

また、黒人が不当に裁定されてきたということを逆手に取ることもある。O.J.シンプソン事件などはまさにそうである。あの男が確実に元妻と、その側にいた男性(言わばデートをしかけていた程度の関係)を殺したのは遠い日本から見ていても明らかで、事実、後の民事裁判ではそう認定されている(刑事では間に合わなかった、現場の靴跡に合致する靴を履いている過去の写真が見つかった)。しかし刑事裁判では担当刑事の中にレイシスト(ニガーと吐き捨てている録音が出た)がいたことから、DNAを含む証拠がこの刑事の捏造という印象を作り上げ、陪審員も黒人を多くする根回しをして無罪を勝ち取った。

If I Did It: Confessions of the Killer (English Edition)
Years after being acquitted of criminal charges in a case that was highly-publicised in the US, finally in November 2008...

人種と社会階層と教育制度

確かにアメリカの統計上、そういうデータはあるが、それは人種じゃなくて人種も一つの要素となって置かれる社会的な階層(sociography)の方が関係しているのであって、富裕層、中流層、一般〜ブルーカラー層、貧困層、犯罪者家系、みたいな切り分けをすればどの層にもあらゆる人種が存在していて、ただその割合が異なるだけである。

また、それが別の負の連鎖を産んでいて、同じことをしても黒人は検挙され、白人は見逃されることがある。また黒人はすぐマークされるが白人じゃないという思い込みから取り逃してしまうことがある。それが単純に「人種別の犯罪率」の数値に繋がるわけである。

それぞれの社会階層において人種の割合に顕著な傾向があるのは、世代を通じて白人が支配的であった時代から、公民権運動が起こってもまだ60年かそこらであって、すでに出来上がっていた社会階層の変化がまだ途上というだけである。

日本は人種問題がないから、というのではなくて戦後から現代に至るまで社会階層の入れ替わりが結構激しい国なので、ここのイメージがつきにくいのだと思う。

アメリカンドリームなどという言葉があるが、もちろんごく一部の下剋上っぷりはアメリカの方が凄まじいのだが、あくまで社会全体で見れば、その上昇ぶりがそこまで大きくはなくても、「貧乏」と呼ばれる環境の子供が大人になって平均より経済的状況が良い家庭を築いていることにおいては日本の方が多く見られると私は思う。

その理由は教育制度にあると思う。

日本では大都市部では初等〜中等教育の私立人気があり、さらに学校の勉強を完全にやっても解けない入試問題のために塾などが必須となって、経済的に余裕のある家庭の子供がより良い教育を受けやすい構造もあるが、全国的には公立高校に進学校が多く、公立中学での成績がトップクラスであれば進学できるようになっている。そして公立中学というのはもちろんどこは荒れていて、どこはおとなしい子供が多い、とかはあるのだが、基本的に教科内容は日本全国文科省が決めていて差がないことになっている。

まだまだ私立(や特別な受験準備が必要な国立)が優勢な東京においても、私は故石原慎太郎氏の都政は大半において評価してないが、唯一都立高校の復権に着手したことは評価している。それに低迷していたと言われる時代でも都立の上位校から東大に入る人は普通にいた。

つまり、たとえ比較的経済的に恵まれない家庭の子供でも、本人にその素質とやる気があるならそれなりの学力が得られる仕組みはある程度確保されていて、その結果、割と社会階層の代謝が激しくなっている。たとえば昭和末期だと(新制)中卒の親を持つ東大生、というのは別に珍しくなかったはずである。

まあ、日本ではただの学費ローンが奨学金などと言うほど本来の奨学金制度が充実していなかったり、21世紀になってむしろ経済的に進学ができなくなっている子供が多くなっている事実もあるのだが、単純にアメリカと比較すると、アメリカでは富裕層、中流層、一般層、貧困層、の住むエリアは分かれており、公立学校というものが各エリアによって全く異なるということからすると、日本はそこまで親の経済力や社会的な立ち位置の影響が学力に及んでないといえると思う。

たとえばアメリカの貧困層の多い地域の公立高校だと有名大学に進学するには実質履修すべきであるレベルの科目が開講されていない、などということが多いという。アメリカは高校まで基本的に義務教育で入試もなく公立高校に進めるが、選別がないために単純に住んでいる地域の財力で高校で勉強できる内容やレベルが決まってしまうのである。

この影響は英国とかフランスにも見られることで、英国などではGCSEという16歳で受験する学力資格(これがその後の進学、就職などについて回る)の学校別の成績を見ると、公立学校間で見事なまでに中流エリア、労働者層エリア、貧困地域エリアなどで大差がついているそうである。フランスでも公立校の中に特別なクラス?コースのある学校が存在し、成績次第で越境が認められることもあるらしいのだが、より評判の良い中学に入るために引っ越す家庭も珍しくないらしい。私の元パートナーは父親の仕事によりいくつかの都市を転々としたのだが、転居の際にその都市の良い学校に合わせて住居を決めていたと言う。そして、そういう「レベルの高い学校」がある地区というのはもちろん家賃もお高いのである。

そこへいくと日本は原則として小中(入試のある公立中高一貫の中学は除く)の公立間の履修内容は差がなく、教員も一定年数ごとに転属するから一定の学校に良い教員悪い教員が集中するわけでもない(ただ悪い教員に当たってしまう不運はあるが)。

公立高校の入試が原則として公立中学の履修内容に準拠していて、その学力別に相応の学校に入れるシステムになっているのは日本の良いシステムであると思う。(まあ学習内容そのものには改革すべき点は多々あると思うが)

(ただし高等教育のシステムに関しては大陸ヨーロッパは無料であったり、それに近かったりするため、日本が改革できる余地は多い。あくまで高校までの学力、つまり大学進学への前提の意味で日本は比較的良いシステムだと思う)

別に学歴が、即、属する社会階層や経済力につながるわけではないのだが、傾向だけで言えば相関はあって、特にアメリカでも英国でもフランスでも、日本以上にその傾向が強いわけである。

そして、もちろん富裕層ならではの犯罪というものもあるのだが(ゴーンとかね…)、全体で見ると犯罪率と社会階層、経済力には「傾向」はある。

犯罪データに人種別の傾向があるのは、人種別に生来の傾向があるわけではなくて、つい60年前まで社会制度として人種別に区分されていたアメリカ、英国やフランスは旧植民地からの移民がそれぞれのコミュニティを作ってエリア別に住み、旧来からの仕組みに入りきれていないことなどから、エリア別の経済格差が未だに残っていて、学校制度からしても子供世代の学力と進学率に影響してしまい、その結果、経済レベルによる社会階層に人種の偏りが長く残ってしまっているからである。

人種的に多様でない国の人間が、なぜ個人差という発想に乏しいのか

日本が単一民族国家である、というのはもちろん誤りである。

日本は灰谷健次郎の「太陽の子」を読んでいると、返還後すぐあたりの沖縄出身者が差別されていたのを感じたり、もちろん現在も「在日」と呼ばれる人々への差別をネットでも日々目にするから、差別的なところはかなりある国だと思う。

しかし欧米という括りの国々(とくにアメリカや、英仏のような国)と比較すると、「在日差別」を除いて、浮き彫りになるほどの人種・民族的な対立が見られない(もちろん、いわゆる<ハーフ>へのマイクロアグレッションなどは無視できないのだが)。

「〜人はこうだ」というような言説を耳にするたび、私は

あなたはその年齢まで生きてきて、この日本人があまりにも人それぞれだということに気づかなかったのか

と思ってしまう。

日本人は器用だからというが、不器用な日本人を見たことがないのだろうかと思うし、日本人は清潔だというが、不潔な日本人を見たことがないのだろうか?

日本人は数学が得意?偏差値で30台から70台まで分布(もっと分布が広いこともある)している事実についてどう思うのか?

日本人は脚が短いということですら、浅田真央ちゃんは覆してくれたし、寿司が嫌いな日本人は山ほどいるし(日本人が毎日生魚を食べていると思い込んでいる人は多い)、

何より性質などは千差万別である。

日本では落とした財布が返ってくるという話が出るたび、「言い過ぎ」と思ってしまう。

私はまあ平均以上の財力の家庭の子が殆どだろうと思う私立中高に日本が豊かだった90年代に通っていたが、定期的に財布の盗難騒ぎがあった。

のほほんとした女子校だったが、ノートの盗難もあった。自分が人のノートで勉強してやろうというより、おそらく持ち主の足を引っ張りたいという動機なのである。しかもその持ち主に何の恨みがあるのかもわからない感じである。

意味のわからない嘘をつき続ける子もいた。

同じ制服を着て、何不自由ないのほほんとした少女たちも、全員、違った性質を持ち、それが異なる倫理観と程度につながっているのだ。

そんな小さな世界でもそれくらいバラバラなのに、国籍、まして人種などで性質など測れるわけもなく、とにかく個人差でしかないのである。

そんなこと思ってる私ですが、こんなタイトルのKindle本を出してます。(矛盾)

雑感
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30代からヨーロッパの某2カ国で生活したりもしてましたが、四十路を越えて帰国。今は老親との3人暮らし。フリーランス。

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