飯塚事件への考察。冤罪派の印象操作

先月、NHK BSで1992年に起こった飯塚事件が冤罪ではないかとやっていた。

この事件で犯人とされた久間三千年は死刑執行されてしまったので、もし冤罪であるなら大変なことである。

私はこのブログでもカテゴリーを設けるほど国内外の事件について関心が高いので、早速ネットで見られるだけの情報を見てみた。

地裁や高裁の判決文も全文読むことができる。

福岡地方裁判所平6 (わ) 第1050号、平6 (わ) 第1157号 - Wikisource
福岡高等裁判所平11 (う) 第429号 - Wikisource

この事件に関して、民放のテレビ番組などは弁護団の主張を主に紹介し、また冤罪派のジャーナリストの本なども何冊か出ている。

確か何年か前にも「冤罪?!酷い…」と思いながら調べたことがあった。

今回NHK BSでやっているのを、私の趣味を知っている親が教えてくれて途中から見たのだけど、民放ほどではないけど、かなり冤罪寄り(視聴者に冤罪を確信させるには十分たる)な放送内容になっているので驚いた。

民放が視聴者を惹きつけるためにそういう偏向内容になるのはいつものことなのだが、NHKたるものが…

ただしそういう内容にしないと弁護団の協力や、奥さんの出演は望めなかっただろうとは思う。

私のこの件への見解は

ほぼほぼ冤罪ではない(少なくとも事件に確実に関与してはいた)
ただし状況証拠のみで死刑執行すべきではなかった

である。

飯塚事件とは

この記事に辿り着いた方は既に事件の概要は知っている人が多いように思うので詳細を省くけれど、

1992年に福岡県飯塚市で、小学1年生の2人の少女が登校中に失踪し、翌日に山中から2人の遺体が発見された。女児たちは性的暴行を受けていた。

それから2年半ほど経って、警察はかねてよりマークしていた近隣に住む久間三千年を逮捕した。本人の自白がないまま死刑判決を受け、2008年に死刑執行された。

最後まで自白をしていないので「冤罪ではないか?」と疑う余地があり、他の冤罪が疑われている事件と違って執行されてしまった点から注目されている事件である。

1番の問題:足利事件と同じDNA型鑑定の不備を喧伝していること

まず、冤罪を疑わせる最大の要因は

後に無罪と認められた足利事件と同じMCT-118型のDNA型鑑定が、被告のDNA型鑑定に用いられていた

という点であろうと思う。

両事件とも幼女が性的暴行、殺害されたものであり、被害者に付着した犯人の体液(足利事件)、血液(飯塚事件)から行われたDNA鑑定が、この精度が低いとされる鑑定方法だった。

この足利事件が、長い時を経て冤罪であることが証明され、当時のDNA型鑑定の信用性の低さが指摘されたことは印象深く記憶している人も多いと思う。

そして晴れて無罪放免となった菅谷氏が、前年に死刑執行された飯塚事件に触れたことで、注目を集めるところとなった。

同じ誤ちで冤罪に追い込まれた人が無実の罪で国家に殺されたのではないか?

確かにこれは恐ろしいことであり、事実ならば冤罪に追い込んだ関係者を断罪したいところである。

誰もがそう思うところをついて、テレビ番組も報道も盛んに情報操作を行い、視聴者、読者の印象をミスリードしている。

足利事件と異なり、MCT-118型のDNA型鑑定結果は決定的な証拠になっていない

判決文を読めばわかることなのだが、

飯塚事件でもMCT-118型 DNA型鑑定は行われたものの、その結果は証拠として判決の決定打とはしていない

のである。

判決文(1999年9月)より抜粋

1999年9月の地裁判決文では、

七 被害児童の身体等に付着していた血液の血液型及びDNA型について

の項で、鑑定方法や鑑定対象の血液の採取などについて詳細な説明があった後で

したがって、犯人が1人であるならその犯人の血液型はB型で、MCT118型は16-26型であるという事実(これが証拠上認定できる事実である。)は、犯行と被告人との結び付きを推認させる積極的間接事実には違いないが、犯人が1人であるという前提事実が証明されていない以上、それが証明されている場合と比較すると、やや証明力が弱いといわざるを得ない

さらに

犯人が1人であると仮定した場合の犯人の血液型とDNA型を併せた出現頻度は約266人に1人の割合という程度であるに過ぎず、血液型とDNA型の出現頻度のみでは、犯人と被告人とを結びつける決定的な積極的間接事実とはなりえない

としている。

HLADQβ型の鑑定結果(科警研)も却下している

また、この犯人の血液は被害女児の膣内から採取されたため、女児の血液とも混じっており、さらに少量だったため、その区別が困難であり、HLADQβ型での鑑定結果が信頼できないものであると判断する経緯が詳細に述べられている。

以下、地裁の判決文から抜粋

しかし、MCT118型検査と比べるとやや多くのDNA量を必要とすることから、場合によっては検査が行えないことがある。また、このキットは元来単独資料の型判定用に開発されたものである。したがって、混合したDNAでは積極的な型判定ができない場合がある。坂井・笠井鑑定は、混合血痕であることが明らかな資料についてもHLADQα型検査を実施し、犯人のDNA型を推定しているが、右に照らし、疑問である
同鑑定は、MCT118型の検査結果から資料中のB山のDNAと犯人のDNAの混合割合を推定し、それを手掛りに犯人の型を考えているが、HLADQα型検査によってある型が検出できるかどうかは、その型の検出限界を超えるDNAがあるかどうかによるのであって、相対的にみてB山のDNAが多いとか、2人のDNAが同程度であるということでは、それぞれの型が検出されたかどうかを(ある程度推論することはできても)断定することはできないといわざるを得ない。
(中略)
以上のとおりであるから、坂井・笠井鑑定によって犯人のHLADQα型を特定することはできない

私はド文系人間で、もちろん自分でDNA型鑑定を行ったことはないのだけれど、被害女児の処女膜は断裂していたわけだから、おそらく女児の血液の方が多く、そこから犯人の血液(体液ではない。後述するが、犯人は陰茎から出血する持病がある人物だったことが推測される)を別に選り分けて鑑定するのが非常に困難であることは想像できる。

どうにか採取した犯人の血液もこのHLADQβ型の鑑定には不十分で、科警研の結果も上の抜粋にあるように採用していない。

外部の鑑定結果は「検出できない」であって、別人のDNAが認められたわけではない

報道や特集などを見ていると、科警研ではない外部(帝京大)の鑑定結果で被告人(当時)のDNA型が検出されていないことを、あたかも冤罪の根拠であるかのように言っている。

しかし上に書いたように、そもそも犯人のDNAは被害女児の膣内から採取された血液からしか検出できず、他の事例のように体液は付着していなかった。

そのため採取されたサンプルが非常に微量で、先に科警研が検出した後に帝京大の研究室に渡った分からはDNAを特定するのに十分な量がなかったのである。

そういうことからの、被告人(当時)のDNA型が検出されなかった、という結果であって、別人のDNA型が発見されたというわけではない。

しかしマスコミの言い方はミスリードを招くものが多いと思う。

つまり死刑判決は、犯人のDNA型鑑定で出たのではなく、複数の状況証拠から導かれたもの

上のように犯人と被告のDNA型鑑定の一致は、「断定ができない」という判断になっている。

他の性的暴行のある事件と異なり、体液が付着していないし、微量の血液が被害者のものと混じった状態で残っていたのみだったので、十分な鑑定が不可能だったと思われる。

では何をもって彼は有罪となり、死刑判決を受けたのであろうか。

被害者の衣服に付着した繊維と、被告の所有していた車のシートの繊維が一致

そもそも警察は早い段階で久間をマークしていた。事情聴取をして、上記のDNA型鑑定を行なっていたが、そもそも警察の方でも「決定的な証拠ではない」として逮捕に踏み切っていなかったのである。

実に2年以上も経って逮捕に踏み切ったのは、被告が中古車屋に売却した車を警察が押収して、被害者の衣服に付着していた繊維と車の座席シートに使われているものが一致したことによる。

地裁判決文によると、

被告人車の座席シート(助手席を含む全部の座席)に使用されている織布(S-TYR313X、以下「本件織布」という。)は、マツダが、ウエストコーストのマイナーチェンジに際して、ウエストコースト専用に開発したものであって、昭和57年3月26日から昭和58年9月28日までに製造されたウエストコーストの座席シートにだけ使用されており、他のマツダ車には一切使用されていない

ということで、科捜研の鑑定だけではなく、東レやユニチカにも委託され、その結果から被害女児の衣服に付着していた繊維が被告の車のシートの繊維と同じであるという可能性は非常に濃厚であると考えられた。判決文を読めば、その繊維がいかに特定されていったのか詳細に書かれているので、弁護団の主張のように広く使われる繊維だったとは思えない(ただ、もちろん判決文の中でも断定できるとまではしていない)。

繊維は、2人のスカート、キュロットスカート、それぞれの靴下からなど、各々の女児の衣服の複数箇所から発見されていて、また警察はこのように繊維がつくものかと実験も重ねており、車で運ばれた際に付着するのは自然と認められる。

被告の所有していた車のシートから相当量の尿痕と血痕

被告は事件から半年後に中古車屋に車両を売却したのだが、完全に掃除され、しかもシートを外して水洗いしていたという。

しかし尿痕と血痕は認められ、被害女児がかなりの排尿をしていた(発見された下着から)ことを考えると、被害女児のものである可能性があった。

そこで被告やその妻に事情聴取をした際に確認したところ、当初は誰かがおもらしをしたり、流血した記憶はないと答えていた。長男も車の購入当時で既に5歳になっていたし、相当量の尿痕がシートに残るほどのことがあれば何年か経っていても記憶に残るのが普通である。気軽に洗えるわけではないから、「あーあ、やっちゃったか」と車の所有者なら匂いや汚れが残らないかと気になるものだ。

しかしシートから尿痕が発見されたと知ると、供述は曖昧になり、公判では供述時には述べていなかった妻の母親の排尿の世話を車内でした、というエピソードが急に出てきたりと不自然だった。

この車両は中古車で、前の所有者も出廷して証言したが、だれかが排尿したということもなく、流血したこともないということだった。

さらに、血痕については当初は血液型を割り出す程度しかできなかったのが、次項目で説明するように微量の成分からTH01型のDNA型鑑定が可能となり、その結果被害女児1人と一致している。

シートの血痕のDNA型鑑定(TH01型)の結果、被害女児の1人と一致

これを上の精度の低いMCT118型DNA鑑定(足利事件でも用いられた)と混同する人が多いと思うが、これは全く別の鑑定方法で、いわゆる後発の技術である。

2万3千分の1まで区別しているということなので、やはりその血痕は被害女児の1人(発見時、かなり鼻血を出している跡があった)のものだと言い切っても良い確率であると思う。

現にこの鑑定結果そのものには被告側の弁護団もケチをつけていない。

その代わりに警察が車両を押収してから何年か経っていることを逆手に取り、

「警察が後から証拠を捏造している」

と主張しているが、判決文を読むに、それは考えにくいと思う。なぜなら、

繊維の鑑定を委託されていた東レの鑑定チームも、「血液の染みは当初からあった」と証言

しているからである。

久間がシートを車体から外して水洗いしたことにより、シートを覆う織布の表側からは血液の染みは目視できないほどになっていた。しかし東レに繊維の鑑定を依頼するにあたって切り取った織布の裏側、すなわち中のスポンジ部分との接触側に、当初から血液の染みがあったことを東レの鑑定チームが証言している。

尿痕と同時に血痕の存在は当初より確認されており、

シートが水洗いされていたことにより血液が分解されており、MCT118型やHLADQβ型での鑑定は不可能であった。

捜査陣は数年で飛躍的に精度が向上したDNA型鑑定の導入を知り、改めて車体から、織布を切り取った後のスポンジに残った血痕に着目し、東レから該当の織布を返却してもらって鑑定したのである。

であるから、

少なくとも被害女児の1人が被告の車両に乗ったことがある。更にそこで流血しているということは確実

であろうと思う。

但し、被害女児の体内から発見された犯人の血液と異なり、車両に残された被害女児の血痕だけでは、殺害を決定づけるまではいかない。それが殺害当時の血痕であるかどうかまで証明できないからである。ものすごく怪しい、かつ強い状況証拠でしかない。

被害女児の体内から発見されたのが精液ではなく血液であることと、被告の持病(亀頭包皮炎)

通常、性的被害を受けた被害者から発見される犯人の体液は精液や唾液であることが多いところ、上記のDNA型鑑定の精度の点で触れているように、このケースは血液であり、精液や唾液は発見されていない。

発見箇所から言って、手指から出血していた可能性もあるものの、その割には下着を含む被害者の衣類から一切発見されていない。唾液も発見されていないことからすると、犯人の陰茎から出血していた可能性が高いと推測されている。

被告(当時)は取調べを受けた当初、

自ら「糖尿病由来の亀頭包皮炎を患っている」と話していた。

つまり激痛が走るので女性器に挿入したいという欲望がないから、こんな事件を起こさない、と主張していたのである。(っていうか7歳児に対してそういう発想もなんだか飛躍してないか?私は女性なのでよくわからないけど、全く小児性愛の要素がない人が、そういう言い方するのかなあ…)

それは事件の3ヶ月前に発症して病院に行き、診断されるまでの経緯を本人自ら詳細に語られるものだった。毎日新聞の記者もこれに関連する話を聞いており、テープに記録している。

しかし被害女児から犯人の血液が発見されたことが判明すると、一転して供述を変え、

事件当時はもう亀頭包皮炎は完治していた、と主張し始めた

これは妻も「1ヶ月で治った」と証言するようになるが、このことについて事情聴取された当初は病状について把握してないと語っていたはずだった。

さらに、

「フルコートF」という強い皮膚病用の薬を買ったことはないと主張したものの、薬局の店主と店員が何度も被告が買ったことを記憶していた

という事実もある。

その薬は副作用が強く、薬剤店主は自分からは決して勧めず、客から名指しで求められた場合にのみ販売していたそうである。しかも複数回に渡って販売していたので強く記憶していた。

同様の理由で店員の方も記憶している。

それらのことから被告は事件当時も亀頭包皮炎を患っていたと見られ、症状からしてもし被害女児に暴行を加えていれば、その摩擦により出血することが考えられる。そしてその痛みにより射精には至らない(精液が見つかっていない)と思われる。

もちろんこれだけでは特定はできないのだが、被告が事件当時にそういった症状を持っていたことは単なる偶然というよりは、状況証拠の一つになると言える。

また、当初は盛んに自分が犯人ではない根拠として自ら話していたにもかかわらず、供述を一転させるのも怪しさを増す感は否めない。

アリバイがない

これは細かく書くのがそろそろしんどくなってきたので、判決文でも平易な部分であるからどうぞ読んでください。福岡高裁判決文でのアリバイに関する記述福岡地裁判決文でのアリバイに関する記述

まず当初語った行動の通りだと、息子を学校に送った後に、被害女児がいなくなったと思われる地点を車で通りがかった時間が、ちょうどいなくなった時間になる。もちろんその後の供述で経路を変えたのだが、妻、母の当初の記憶は曖昧であり、アリバイを担保するものではなかった。

また、10時20分から2時間あまりパチンコ店にいたと供述しているが、その目撃証言は一切ない。

もちろんパチンコの客は自分の台に夢中になっているのだろうが、店員までもが一切記憶もしていないということがあるのだろうか?

駐車場に被告(当時)の車が停まっていたという目撃情報もなかった。

ただ、これだけではなんとも言えないとは感じる。

しかし当日の行動についての供述が二転三転したことについて、冤罪派の人の感覚では

事件に関わりがないからこそ、記憶が曖昧なのだ

ということらしいのだが、それはありえないと思う。被告が遠くで暮らして事件の報道もいつものニュースの一つ、というものだったらわかるのだが、

この事件は我が子と同じ小学校の生徒が二人も殺され、しかも失踪の翌日に遺体発見

というショッキングなものである。遺体が発見される前から地元の有志で捜索が行われ、被告もそれに率先して参加していたという話でもある。

普通、そんなことがあれば、アリバイとかではなくとも、むしろ自分が女児たちを目撃してないか、怪しい車はなかったか、などと振り返るものである。

アリバイがない、ということよりも、二転三転させたところに怪しさを感じてしまう。

三叉路、八丁峠での目撃証言は実に自然であると思う

まずこのことについて語る前に断っておくと、私はこの目撃証言は単なる「有力な情報」であって、証拠とするまでには至らない、とは思う。

特に三叉路での証言に関しては、目撃情報からいなくなったと計算される時間、地点にいた車の情報でしかなく、他の車両も目撃されている中で単に「マツダの紺色のボンゴ車も通りがかっていた」という情報でしかない。

それにしても三叉路での目撃者は4人いて、そのうち2人は女性である。

1人の女性は2人の女児を見かけ、同じ道路沿いを通ってきて3分後に同じ職場の駐車場に到着した別の女性は見かけていないので、女児たちがいなくなったのが三叉路あたりと推測されている。

私も普段は運転しないが、ごく稀に旅行先で運転した経験から言えば、小さな子供というのは運転手にとって非常に緊張させる存在だから、この2人の証言は非常に信用性が高いと思う。つまり2人目の女性が見ていない、というのも信用できる。

自分が勤務している街で1年生の子供たちがいなくなったり殺害されたという事件があれば、自分が昨日の朝運転してきた時…と考えるものだし、この女児たちは普段より遅い時間に歩いていたのだから2人だけ歩いていればさぞ目立ち、1日程度では薄れない記憶だろうと思う。

そして女性は色や詳細までは特定していないが、ボンゴ車を見ている。

私はボンゴ車、というものにピンとこないのだが、皆が毎日の通勤に車を使うような車社会の地域では、男性はもちろん女性も一定の範囲の車に詳しいのだろうと思う。

なぜなら自分自身も何年かおきに車を買い替える際に、色々な車を比較しながら検討するのだろうし、家族や友人、親戚、同僚が車を買い替える度に「買ったんだ」「乗り心地はどう」などと話題にするからである。

女性も自分はワンボックスを運転しなくとも、家族や恋人が乗ったり、買う時に「どれがいいと思う?」と相談されたりして詳しくなるものだと思う。

他の男性の目撃証言を見ると、1人の男性は「マツダのワンボックス、マツダ特有の濃紺、ダブルタイヤで、マツダ純正のカーテンが引いてあって後ろの窓にはフィルムが貼ってあった」と実に詳細なのだが、これはもう1人の目撃者に「今轢かれそうになった」と言われて見たからである。

この発言内容を見ると、この方は元より該当の車種の知識があったのだと思う。マツダ純正のカーテン、ということから自分でも購入を検討したことがあったりした人だと感じる。

そういう人なら、ダブルタイヤという特徴にも気づいて然るべきだと感じる。

また、この方は同時に通りがかった車両の車種も具体的に挙げている。弁護団は後述の八丁峠での目撃証言に対して「詳細すぎるので不自然」と争点にしていて、テレビ番組もこれを扱い、その信頼性を損なうような捉え方をしているけれど、こちらの目撃者が他の車両も同時に色々と記憶していることを考えると(この方だけではなく、女性の目撃者も複数車両を記憶している)、車に詳しい地域の人が瞬時に車種への知識から特徴を多く捉えるのは不思議ではないと感じる。

八丁峠での目撃証言も違和感がない

被害女児の遺体発見からさらに1日経って、遺体発見現場から数キロ離れたところで遺留品が発見された。

その遺留品が発見された山林に沿った山道のカーブに、殺害当日の午前11時ごろに1台の車が停車していて側に男がいた、という目撃証言があった。

それもまた、三叉路での目撃証言での車と同じように

紺色のワンボックスカー、後方の窓にはフィルムが貼ってあった

と証言した。これに加えて

後輪が小さいダブルタイヤ、ラインはなかったが、サイドモールはあったように思う。男の服装はカッターシャツに茶色のチョッキ(ベスト)

とも証言していて、このあたりに

詳しすぎる。10秒程度の目視でそこまで特徴を捉えて記憶に留められるのか?

と被告側の弁護団からものいいがついている。そして弁護団は日大の心理学教授に協力を依頼して実験が行われ、

被験者はそこまで記憶できなかった

と目撃証言が信頼できないものであるとし、さらに

被告の車両の特徴を知っていた警察官による誘導があったのではないか?

と不当捜査を主張するようになったのである。

私もテレビ番組でこの疑問を紹介していた時に、同じように感じた。しかし、この目撃者の属性(森林組合の職員)や、なぜそんなにこの車に注目したのかという理由や、上記のように車社会の地域の人の車体の識別能力を考えると、全くおかしくない目撃証言であると感じた。

…と、あまりにも長くなってきているので、この目撃証言については次回に分けたいと思う。

飯塚事件への考察(2)八丁峠の目撃証言は極めて自然であると考える
冤罪が広く信じられている1992年の飯塚事件(小1女児2名殺害事件)。DNA型鑑定が決め手となって死刑判決が出たわけではないことは前回くどくどと述べたが、それと同じくらいテレビ報道で歪曲されているのが遺留品遺棄現場にいた車と人を見かけた目撃証言についてである。目撃者の名誉回復に役立ちたい。

 

*筆者はこういうKindle本を出しています。(unlimited対象)

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